作:木本 和久
「ここを買いませんか? 一棟全部」
昨日、仕事の打ち合わせの後入ったホテルのバーカウンターで言われて差し出された一枚の写真。なんとも不思議な話だった。
僕は、上々の打ち合わせが終わり、なんとなくそのまま帰る気にもなれず、そのまま同じホテルの地下にあるバーに入った。平日の遅い時間ということもあってか、客は僕と初老の紳士の二人だけだった。上質なツィードのジャケットをさりげなく着こなしたノーネクタイのその男性は、カウンターストゥールをひとつ隔てて座っていた僕に話しかけてくれた。
「失礼ですが、油絵をされているのですか?」
僕は、趣味と言うのも恥ずかしい程度に絵を描いている。それは、自分自身をリセットしたいときに描く程度のもので、同軸に料理を作ったり、ミックステープを作ったり、外をジョギングしたりと色々あるものの一つだ。油絵の具の匂いが好きで絵を始めたくらいで、絵に関するセンスも知識もない。ただ、その匂いが好きだからクローゼットの中に絵御を描く道具を置いている。だから、僕の洋服は一種独特の匂いがするらしい。その匂いに彼は反応したんだと教えてくれた。
「描いてますが、描いていると言うにはあまりに恥ずかしい絵です」
「それはどうして? あなたはとても良い雰囲気を持っていらっしゃる。きっと繊細で美しい絵を描くと思うのですが」
上々の打ち合わせと、ほどよくジンの入ったジンバックのおかげで少々饒舌になっていた僕は、匂いの秘密について話した。
「そうですか。好きな香りに囲まれているわけですね。私も以前、少々絵を描いていたのですが、もうこの通り老いぼれでして、小さくて汚い画廊を経営しているような状況です。」
画廊を持つことは、僕の中で少なからず目標にしているところがあって、その話を詳しく聞かせてもらうことをお願いした。
「いえいえ、そんなたいそうな画廊ではないですよ。画廊というよりは、貸しアトリエみたいなものですし。それに私がはじめたのではなく、亡くなった私の妻がはじめたものです。それに法律なんかが微妙に絡む土地に建っているものですから、改装や立て替えが出来ずにオンボロ中のオンボロです。この場所はご存じですか?」
そう言って、その紳士は僕に一枚の写真を差し出した。
© Kazumichi Kidera(木寺 一路) |
『旦過ノクターン #2』へ続く