作:木本 和久
その場所は、あまりに有名な場所だ。小倉にある川の上に建つ集合住宅形式のアトリエだ。年に一度、入居しているアーティストの共同展があって、それに毎年行っている。行ってみて気付くのだが、年に二、三組ほどのアーティストが入れ替わっていて、さらにそのほとんどが美術雑誌を購読していれば、必ず目にする“注目株”たちばかりだ。
「知ってます。知ってるどころか憧れの場所です。僕が聞いている話では、全十八室。中は十五畳程度のスペースがあって、常に満室状態の貸しアトリエ。実は、そこに入りたくて、色々な不動産屋に聞いてまわったこともあるんです。ところが、どうも賃貸情報の中には出てこない。出てこないどころか連絡先も分からない。そのアトリエに入っているアーティストの方に聞いたこともあるんですよ」
「そうですか。それでなんとおっしゃってましたか?」
「それが、どうもピンとこない答なんです。ある日突然、小包が届くそうです。中身は、『入居募集』と描かれた一枚の手紙と、古い鍵が一本だけ」
その紳士は、ニコニコしながら聞いている。今夜の僕は、いつになくよく話す。内心、そのアトリエに入れるかも……という期待があったから。
「そして、そこの場所を訪れると、すでにその人の名前が書かれたネームプレートが扉にかかっていて、部屋の中の大きな作業机に一枚の紙があるそうです」
「ほうほう」
「その紙には、こう書かれていると聞きました。『退去日時は自由です。退去するときは、窓際にあるボタンを押してください。ただし、一度押すとここには戻って来ることは出来ません。では、心ゆくまで』と」
「ほうほう」
「そのボタンを押すと、川の中に仕掛けられた無数の電球が一晩だけ点滅するそうです。それも部屋毎に点滅パターンが決まっているみたいで、点滅が始まると入居者全員が集まってビールとつまみを持ち寄って対岸で見学するのが慣習化しているとも言ってました。そして、一人アーティストが退去するといつのまにか別のアーティストがやってくる。つまり、入居者は出ていくときの仕組みは知っているけど、入るときの仕組みは分からないと言ってました」
僕が話し終わると彼は、僕と同じものをとバーテンダーに注文しこう言った。
「概ね、そういうことでしょうな。実は、持ち主の私にも詳細は分かっていないのです。さきほども言いましたように、妻の持ち物であり、妻がはじめたものですから。妻が他界してからは、私ではなく私の一人息子がやってましたし。実は、その息子も先立ちましたね。一週間前に急に亡くなりました。もともと、人付き合いが得意なほうでもない私はこれで完全に一人になりました。いえいえ、そのこと自体は悲しくありません。逆にやっとカルマが落ちたような気分です。さきほどあなたがおっしゃった“リセット”という状態と申したらよろしいのでしょうか。私一人が生活していくくらいの蓄えもありますから、これからは本当に呑気に暮らしていけるというものです。ただ、気になるのはあの場所の行く末だけです。あそこだけは、私がいなくなっても残っていて欲しいのです。あそこはもともと私の妻の祖父の持ち物で、それを維持しておかないと私があの世に行ったとき、妻やその家族から怒られてしまうでしょうからね」
そう言ってほがらかに笑い、ジンバックを一口飲んだ。
© Junichi Nochi(野知潤一) |
『旦過ノクターン #3』へ続く
『旦過ノクターン #1』