銀杏屋は、江戸時代の長崎街道・黒崎宿と木屋瀬宿の間の休憩所で、諸大名も籠を降りたというほど、急な石坂を上った所に設けられました。
有名な庭の銀杏の木からの命名です。 原則的には、一般旅人の休憩所ではなく、大名たちの「御小休所」でした。 宿泊はできませんでしたが、伊能忠敬らもここで昼食を取った記録が残されています。
天保7年10月2日夜、石坂貞治方出火隣家文平甚助焼失とあります。
もともと清水家は農家でしたが、九州各地の大名の参勤交代や江戸長崎間を 旅する役人や高官たちが休息する「お茶屋」としての役目を持つようになりました。
「御成門」がある庭には大きな銀杏の木があるところから、「銀杏屋敷」とも呼ぱれるようになりました。
座敷は、「書院造」となっていて、他の部屋より三寸ほど高く造られています。
この天井は110センチほどの中二階の造りになっていて、座敷の天井裏は「土」で 塗り固められていて、もしもの事を想定して造られたものと推定されます。
現在あるものは、文化2年(1805)に建築されたもので、一般の農家であり ながら書院造にされた「上段の間」が母屋と一緒に一棟で建てられている極 めて珍しいものです。
上記はwebから抜粋。
©takahiro asai (浅井孝博)