2015年2月12日木曜日


小倉城天守閣
小倉人の誇りで北九州人の自慢であるのだが……。

>現在見られる天守は昭和30年代に『豊前小倉御天守記』『小倉城絵巻』『延享三年巡見上使御答書』等をもとに鉄筋コンクリート構造によって復興された

現在の天守閣は「復原」ではなく、「復興」であり、新築といってもいい。

ウィキペディアの記事には興味深いことがいろいろ書かれている。

>大天守は最上階外廻縁が幕府への遠慮により重数を少なく見せるために、また、雨よけのために雨戸で覆われた下層よりも張り出している、いわゆる唐(南蛮)造りである。最上層の入母屋破風を除き、破風の一切無いものであった

これが天保8年(1837年)に失火によって御殿と共に焼失

つまり江戸時代にすでに消失していた天守閣を戦後十数年というまだ大変な時代になぜつくったのだろうか? そのエネルギーはなにだったのだろうか?

>破風などは地元観光面への考慮から要望によって付加されたもので、大入母屋破風や千鳥破風・唐破風などの破風が見られる

というように、観光用に見栄えを重視してつくられているのが、可笑しくも不思議。この小倉城天守閣の復興(復原ではない)を推進した人たち、その中心人物は誰だったのだろうか? 気になっている




幕末の長州との戦の頃の小倉城は、下の写真のような姿だったのじゃないかと思っている。


© Junichi Nochi(野知潤一)
 
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