黒田藩 犬鳴御別館
中間から遠賀川を超えて、土手道を走ると遠賀川の支流、犬鳴川へ。
このコースが好きでよく走るが、粥田橋から右折して県道21号で宮若方面へ向かうと、だんだんと目の前に屏風のような山塊が大きくなってくる。
その先が犬鳴峠だ。
犬鳴トンネルの手前のダム湖、ここは犬鳴ダム、別称、司書の湖。
ドライブインから右折してダム湖の一方通行の道を進むとどん詰まりは公園になっている。そのさらに先、人も車も通らないような道を進むと右側にゲートがあり、そこが黒田藩 犬鳴御別館の入口。
車は入れないので、そこで駐めて200メートルほど歩いて登ると、やっと黒田藩 犬鳴御別館へ到着。
途中の景色は、深山幽谷。
こんなところにある黒田藩 犬鳴御別館ってなにか?
別館という名称だが、城郭として幕末につくられた。
福岡城は海に面しているので海防の備えが弱い。西欧列強の艦隊に攻撃された場合、藩主をこの犬鳴御別館へ落ち延びさせようという意図でつくられた。指揮をとったのは、加藤司書。幕末黒田藩内でも傑物だったが、尊皇攘夷派だったために、乙丑の変という事件に巻き込まれ切腹。
この尊皇攘夷派への大弾圧で、福岡藩は人材が払底し、幕末から明治初期までなんの働きもできなかったのだ。
人もめったに訪れないようなところだが、とてもよく整備されている。
加藤司書 忠魂碑
揮毫は、陸軍大将 荒木貞夫
この犬鳴というところは、今でこそ県道も通じて福岡とつながっているが、昭和の初めまではそうではなかったという。
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犬鳴峠の古称は久原越えと言われ、江戸時代初期、元和年間(1615年-1623年)に道が開かれたと言う事であるが、江戸時代より昭和初期ごろまで地元民からは重要視されていない峠道であったらしい。古老の言によると、犬鳴峠は非常な悪路であったため利用者はほとんどなく、地元、吉川村の住民は福岡、博多へ行くときは猫峠を越えて篠栗に出ていたという。また犬鳴住民も犬鳴峠は避け、現在は登山道になっている古賀市清滝に抜ける薦野峠を使用していたという。猫峠、薦野峠は江戸時代より昭和初期ごろまで地元民にとって生活上、重要な幹線道路であったという。江戸時代より糟屋、宗像郡などからやって来る行商人は早朝、家を出立し猫峠、薦野峠を越え吉川村の集落などで夕刻ごろまで商取引をした後、集落の中で懇意にしている家に一泊し、朝早く峠を越え帰途についたという。宿泊代は売れ残り商品で済ませていた。犬鳴にも行商人が定宿にしていた家があり、そういった関係から宗像、糟屋郡の住民と婚姻などの縁組が多かったそうである。宮若市側、旧犬鳴トンネル脇にある林道奥は犬鳴の地籍ではなく、脇田の地籍である
以上、ウィキペディアより
© Junichi Nochi(野知潤一)