八幡東区川端町の生家跡の前に車を止めて写真を撮った。
この通路はもう少し広かったのだが、T字の字型の変てこな土地に三軒の家があった。表通りに面しているウナギの寝床のような場所に間口が一間ちょっとの細長い二階建ての家があり、そこには「モナミ洋装店」という看板が掛かっていて、ガラスのショーウィンドウがちょっとお洒落だった。母は戦中に上京して新宿の文化服装学園で洋装を学び、戦後、ここで洋装店を開業したのだ。まだ、吊るしの洋服が売っていなかった時代の頃で、職業をもって社会へ出て行ったモダンな女性たち、つまり幼稚園や小学校の先生たちが顧客。ぼくの子ども頃には、数人のお針子さんがいて繁盛していた。二階がぼくの家の生活空間だったのだが、四畳半の部屋は下宿として歯科大の学生に貸していた。つまり、なんだかわかんないほど賑やかな生活が此処にあったのだ。親父は、朝日新聞西部本社の印刷で働いていて、夜勤も多くて朝に帰ってきて、ぼくが学校から帰ってきても寝ていたような記憶がある。
昭和39年の暮に妹が亡くなって、翌年、母は洋装店を閉めることになり、この通路の奥に二軒あった左の家へ引っ越した。妹が亡くなったショックもあったのだろうが、ちょうどその頃から既製服の洋服も出まわるようになっていたので、オーダーメイドの洋装店も厳しかったのかもしれない。親父も課長になって暮らしも少し安定していたのだろう。
写真の左に「阿座上塾」とある。
この阿座上は、ぼくの小学校からの同級生だった阿座上さんか、その兄弟がやっている塾だろう。電車道を渡ってすぐのところに彼女の家はあった。なかなか成績の良い女の子でぼくのライバルだった。とはいえ、この日は阿座上塾のドアはノックしなかった。
洋装店モナミの向かいには、マコト兄ちゃんの家があった。
往時の煉瓦塀はそのまま残っているが、家は新しくなっていて別の人が住んでいた。マコト兄ちゃんはぼくよりも三、四歳年上で小さな頃からよく遊んでもらっていたのだが、妹が亡くなって寂しくなったぼくは、毎日、向かいの家に遊びに行っていた。マコト兄ちゃんは動物が大好きだったし、模型工作も上手だったのでいろんなことを教えてもらった。そして家には動物図鑑など当時は珍しかった本がたくさんあったのでぼくは毎日入り浸っていた。
マコト兄ちゃんはその後、北海道の畜産大学へ行ったと聞いていたが、ぼくが大学で上京した時に思わぬ再会を果たす。ちょうどタモリがイグアナの物真似で人気だった頃の話。大学の寮で深夜にラジオを聴いていたら、上野動物園のイグアナ担当の人がインタビューされていた。それがマコト兄ちゃんだったのだ。
しばらくして上野動物園へ訪ねて、仕事が終わってから上野の居酒屋でつもる話をしたのを覚えている。今はどこにいるのだろうか。
川淵町の風景は昭和40年頃で時間が止まったように今もさほど変わらない。
違いといえば、子どもの姿が見えないことくらいだ。
この道路の先に天気が良いと皿倉山が見える。
この町の自慢といえば、大相撲の大潮関だろう。
関取になった時に、地元の「高見」をとって高見山としたかったらしいが、すでにハワイ出身の関取がそれを名乗っていたので諦めたと聞いた。
母は大潮関の小さい頃のことも知っていて話してくれたのだが、ちょっと複雑な家庭事情もあり、ぼくにはよくわからなかった。大相撲界へ進む時に、高見神社の宮司さんが援助したとか聞いたことがある。
© Junichi Nochi(野知潤一)