2017年5月3日水曜日


荒生田六条橋の辺りは江戸時代、大藏川(板櫃川)を越える長崎街道の徒(かち)渡り場だったという。

ここから坂を上ると左に長崎街道、右上は荒生田公園

 長崎街道なのだが、それらしいものはなにも残っていない

週末になると、長崎街道ウォーキングの人たちで賑わう

◎ 荒生田(あろうだ)考

両国橋から上流は深い渓谷となっている。大蔵(おおくら)は昔、大倉で、倉(くら)というのは沢筋、渓谷の意味であったと聞く。河内の源流域から渓谷を流れ下った川は、荒生田あたりで川幅を広げて穏やかな流れになっただろうが、一旦、大雨が降れば、渓谷の川は増水し土石を流し、荒生田あたりは氾濫原となったはず。

つまり、荒生田(あろうだ)とは、荒々しく生まれた氾濫原を田畑に転じたということではないだろうか。そう考えるとこの地名は合点がいく。

この辺りが筑前と豊前の国境(くにさかい)。つまり、何処(いずこ)と同じく、領地争いが絶えなかった土地柄。なんとか決着したのは亨保の頃で、幕府が仲裁に入ったとか。

そして明治に入ると廃藩置県で筑前国も豊前国も失くなり、福岡県となる。しかし、河川整備というのは大事業。よほどの事情や見通しがなければ出来るものではない。それに明治政府は財政逼迫、貧乏だった。しばらくは江戸の頃のままだっただろう。

事情が動くのは鉄道時代の幕開けと杉山茂丸が画策した門司築港。遠賀川筋の炭鉱から出る石炭を海運を利用して関西方面へ売ろうとしたのだ。

九州鉄道が敷かれ、これが大蔵を通ったから、その時に川沿いの整備も行ったはず。探せば当時の石垣、石積の跡が残っているにちがいない。


© Junichi Nochi(野知潤一)


 
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